作家佐藤香は、土を絵の具の代わりにして絵を描いています。絵具の代わりといっても、その土地で採取する事を大切にして制作しています。震災の際に実家の土を選んだ事から土を使う事が始まりましたが、なぜ自分が土を選んだか明確に説明できずにずっとモヤモヤしていました。そんな中、2年前から飯館村の方々との関わりでそれが明確になるきっかけがありました。
避難し北海道に移住した16代続く畜産農家の菅野義樹さんに出会い、話の中で「北海道から帰省するたびにたくさんの神さまが迎えてくれて、それが心から安堵する」という話が印象に残っていました。彼は、日々の暮らしに見える自然風景に先祖をみる、という感覚をもっていて、農作業の合間に見る空や山から先祖を感じ見守られて生きています。「先祖などの存在はお盆や正月に逢いにくるが、それ以外にも常に対話して存在を近くに感じ続けて、思いを寄せ続けている存在」という民俗学者の柳田国男の言葉が彼の感覚をわかり易く表現してくれています。「この感覚を持ち暮らす人が、自分の意図に反して突然慣れ浸しんだ土地から引きはがされると、言葉にできない喪失感を抱く。例えば原発事故による避難の様な強制的移動は、曖昧な喪失感を抱きやすいのではないか」と義樹さんは教えてくれました。ただ住む場所を奪われたのではなく、先祖を含めたその人の生きてきた証が脅かされる事態だったと私は学びました。
飯館村には、生活圏に小さな祠がいくつも存在します。なぜ山や道に祠があるのか?それは、そこに住む人の先祖を感じる感覚が関係しています。義樹さんの「たくさんの神さま」は、先祖と自分が生きてきた証を具現化した一部なのだと対話の中で学びました。
避難当初彼は、故郷に居てこそ先祖を感じる事ができると思って苦しんでいましたが、10年の月日の中で離れていても感じる事ができることに気づきました。その話を聞く中で、更に遠方でも故郷を感じやすくする為の作品を制作する事を思いつきました。義樹さんと飯館で暮らす父の義人さんから案内を受けた「たくさんの神さま」と菅野家のエピソードからイメージし、この土地の素材でつくった作品を、北海道の菅野家まで届けるというプロジェクトです。北海道は、明治維新の際に全国からの開拓民が建てた分社が至る所にあります。故郷を感じる存在を遠方に行っても身近に感じる何かを作ることは昔から何処でも行われて来たことで、この作品も分社・分祠の考え方と類似しています。その意味は、本人だけでなく故郷を知らない子孫にも身近に感じやすくし、世代を超えて自分自身が何処から来た何者であるかを認識してもらう目的があるのだと考えています。
義樹さんとの対話で、私自身も土を選んで絵を描いた理由は、自分自身の土地や先祖を表現したかったと気づくきっかけになりました。誰もが抱えやすい曖昧な喪失感、自分が何を失ったのかをなかなか理解することは難しいですが、誰かを知る中で自分を理解する貴重な経験でした。またこの作品で10年間の義樹さんの変化を観て、それを観た福島の人の10年間を共有できる作品にしたいと考え制作しました。
それぞれのエピソードと制作風景



「いつかの誰かの為に」エピソード:
義樹さんのおじいちゃんが新たに山を切り開いて牧草にした場所がある。震災後汚染されたその場所を改めて父の義人さんが手を入れている。今は土地の栄養づくりの為に、ライ麦を植えている。小高い山にある畑からは、広大な山山が見え、その先に福島第一原発がある。畑からは大量の石がでてくるが、それを除去するのが土地づくりにとって大事な作業なのだと義人さんは言い、コツコツ取り除く。想像しただけで大変な作業だが「誰かがやらないと始まらない」との想いで土地を耕す。かつて天保の飢饉の時代、飯館でも沢山の犠牲者を出し土地を去る者が多い中、奇跡的に菅野家は乗り切った。「その時代に比べれば、原発で命を取られたわけではないし、大したことではない」と義人さんはよく話してくれる。いつかその土地を使うかもしれない誰かの為にコツコツと耕している。
